土曜は台風のなか、上野の森美術館のミラクルエッシャー展に。玄関前には何十分待ちのミラクル長蛇の列ができていて、ミラクルずぶ濡れになって大変でしたが、展示内容はミラクル刺激的ですばらしかったです。中でも、モチーフの繰り返しやメタモルフォーゼ(変容)を特徴とする、数学や幾何学を駆使した巧妙な作品群には手放しで感嘆。ただし、肝心なのは繰り返しやメタモルフォーゼそれ自体なのでは断じてないのです。繰り返しやメタモルフォーゼそれ自体なら、古今のあらゆる芸術作品に掃いて捨てるほど見られるのですから。その繰り返しやメタモルフォーゼにおける「モチーフ間の接続」が霊妙なほど自然に処理されていることこそが、最も心して味わわれるべきエッシャー一流の持ち味なのでしょう。ちなみにこうしたモチーフ間の接続の妙技は絵画だけに見られるものではありません。ただちに思い起こされたのは、ピアノ編曲の巨人ゴドフスキの手になる「ヨハンシュトラウスの主題による交響的変容」全3曲。この曲の特徴は、複数の主題をふんだんに詰め合わせながらも、幾重にも主題をほぐして変化させた接続部を、主題たちの合間合間に幻想的に溶かし込んで、音楽の持続性を強調していることです。一条の川のように淀みなく移ろい流れるその持続性のために、鑑賞者の心は常に物語世界にたゆたい醒めることがなく、思わず知らず遥か彼方まで旅することができるのです。とりわけ第2番「こうもりの主題による交響的変容」を聴けば、その接続の妙技の紡ぐ幻惑力がよくわかるでしょう。

ところで、そういった数学的・幾何学的な趣向を凝らした作風で高名なエッシャーですが、一連の作品を通して観ると、40歳前後までの作品はほとんどが常識的な風景画や人物画であることに驚かされます。わかるでしょうか――彼は人生全体を通して、本来より豊かなものと思われがちな有機的なテーマから、数学的・幾何学的な、つまり無機的なテーマへと大きく「退行」したのです。僕はその退行に、その彼自身のメタモルフォーゼに、有機的な存在である人間や生命に対する嫌悪を感ぜずにはいられません。彼自身のこのメタモルフォーゼが、人間の醜態が生命の残忍性が澎湃として牙をむいた第二次大戦を境に顕在化していることも、全くの偶然とは言えないでしょう。戦争を別にしても、事実、知れば知るほど醜くけがらわしいものだと思われます、われわれ人間は、この世にはびこる生命という生命は。この世に産み落とされる前から母親の胎内で無数の他者を蹴落としまでして我欲を押し通して生き延びてきたわれわれは、本来どこまでもどこまでも忌避されるべき存在ではなかったでしょうか――真の美学を掲げるのなら。利己の経糸と欲望の緯糸で織り成された醜怪きわまる欺瞞の微笑をまのあたりにして、いつだって吐き気を催さずにいられないこの僕には、エッシャーの気持ちが、その嫌悪感が、如実にわかります。無機的なテーマを扱っているにもかかわらず、彼の全ての作品の背後から避けがたく漂いきたる仄暗く憂鬱な旋律の源こそは、その並々ならぬ人間性への嫌悪感に違いないでしょう。しかしその嫌悪感自体もまたどこまでも有機的・人間的であるために、人間性への嫌悪感それ自体が自己矛盾をはらみ、無限に循環して真の無機には抜け出せない宿命なのです……何という悲劇!