YouTubeでダニール・トリフォノフのマゼッパを聴き、ただちに彼の音源の収集に乗り出しました。ショパンコンクール以降ご無沙汰でしたが、やはり彼は特別なものを持っていると思います。注目すべきはアゴーギク(緩急)の表現。近年これほど意図的にテンポを操作してくる演奏家は珍しい。けれども、このアゴーギクこそ生きた音楽の秘訣であり、創造的演奏の使命に他なりません。パデレフスキ、ローゼンタール、フリードマン、シフラなどといったピアニストを僕が愛してやまないのは、みなこのアゴーギク(あるいはテンポ・ルバート)を確信的に作り込んでいるからです。

代表的なアゴーギクの表現は、上昇する装飾音階を演奏する際、急激にアッチェレランドをかけ、直後に急に間を挟むといったものです。シフラが多用しているように、アッチェルと同時にペダルを踏み込み、装飾音の最後の音と同時にペダルを歯切れよく放すと、コントラストが際立ちさらに効果が高まります。もちろんアゴーギクは、この種の加速的な表現だけではありません。たとえばアゴーギクの使い手達は、旋律の要となる小節の冒頭の音や、旋律内の最高音などは、逆にふんだんに伸ばして強調します。なおこの際、伸ばした分をどこか別の箇所で縮めることで、全体のテンポの整合を図るものが、アゴーギクの一種であるテンポ・ルバートだといってよいでしょう。一拍目を極端に縮めるかわりに、二拍目を極端に長くする、フリードマンのマズルカの奏法がその好例です。

こうした拍や小節の概念を超えた緩急が相補的に働くことで、躍動感と生命力にあふれた、より心の動きに近しい創造的な音楽が実現されます。しかし、20世紀後半に入ってからは、例外的な演奏家を除いて、ほとんどのピアニストがアゴーギクに背を向けてしまいました。なぜならピアニストが作曲をしなくなり、再現芸術家になり下がったからです。再現芸術の使命とは、もともとそこにある作曲家の作品の有限の意図の再現に過ぎません。無限の「創造」を捨てた、後ろ向きな楽譜の「解釈」の行きつく先は、狂気じみた楽譜の神聖視、楽譜原理主義です。いつしか楽譜の指示を守ることはもちろん、メトロノームのような一定のテンポを保つことが根拠もなく正しいとされるようになり、テンポを揺らせる領域はどんどんと狭まりました。――ショパンやリスト本人がアゴーギクの常用者であり、楽譜を自由に書き替えて、日々まったく異なる演奏をしていたにもかかわらず。

たとえばショパンの生徒は、ショパンがレッスンで毎回違う指導をしていることを指摘しています。これに対するショパンの回答は、「前回の私と今の私は違う」というもの。また、マイヤベーアはショパンがマズルカを3拍子ではなく4拍子で弾いているとも指摘しています。一方、リストの場合は初見の演奏がいちばん見事だと言われていました。なぜなら二度目以降は自由に楽譜を書き替えて演奏してしまうからです。今ではとんでもない御法度とされるこうした創造的な奏法が、20世紀前半に途絶えたピアノ黄金時代の常識だったことは、当時のピアニストの録音を少しでも聴けば如実に分かるでしょう。今のピアニストと違って彼らは作曲をしていたため、楽譜に媚びる必要がなかったのです。あるいは、言われなくとも作曲をするほど創造的な人間でなければ、ピアニストになれない時代だったと言ってもよいでしょう。

冒頭に掲げた、パデレフスキ、ローゼンタール、フリードマン、シフラなどといったアゴーギクの名手もみな、やはり作曲をしているのです。作曲をするからアゴーギクに代表される創造的な演奏ができるのか、創造的な人間だから作曲ができるのかは分かりませんが、いずれにしても僕が知る限り、アゴーギクを使いこなす優れたピアニストはほぼ例外なく作曲をしています。そしてダニールもまた例外ではありません。近年、こうしたコンポーザーピアニストが時々出現し、創造的な演奏に接する機会が徐々に増えてきましたが、まだまだ物足りません。本音をいえば、技術以外でほとんど区別がつかない演奏に、誰もが飽き飽きしてきたころではないでしょうか。作曲家としての気骨を纏った真の芸術家の、更なる到来を待ち望むばかりです。