瞳を閉じて、ほんの10秒だけ想像してみてください。もしある日、自分の家に見ず知らずの人間が集団で押し入ってきて、それまで笑顔で語らいながら仲良く過ごしてきた大切な家族を、目の前で無惨に殺されたら、いったいどう感じるのかを。
夏頃になると毎年のように回想される、さきの戦争の話。とりわけ、空襲や原爆、沖縄戦の悲劇が掘り下げられるため、「戦争=罪のない日本国民が悲劇に見舞われた出来事」というイメージが、意図せず我々の心中に宿るものです。ですがあの戦争は、日本国民が望んで日本から始めたものであることを、どうかよく思い出してください。政治家や軍部が暴走して勝手に始め、国民が巻き込まれた戦争などではありません。むしろ、日清日露戦争に勝ってのぼせた国民の、「やってしまえ!」という熱狂に押されて、政治家や軍部が動かざるをえなかったという事実は、近年までの研究ではっきり暴かれています。では日本国民は、どの国のことを「やってしまえ!」と叫んでいたのでしょうか。その主たる相手はアメリカではありません。1941年から始まった太平洋戦争は、後から付随的に発生したものにすぎないのですから。日本が戦争相手として執着し続けたのは、最初から最後まで、中国でした。
1931年、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐、関東軍司令部付花谷正少佐ら関東軍幹部の自作自演により、中国東北部、満州の鉄道が爆破されました。これを「中国軍の犯行だ」として言いがかりをつけ、中国への侵略を開始したのが満州事変です。この満州事変が日本の謀略による不当な侵略行為であることは、花谷正、陸軍少将田中隆吉ら軍関係者の証言やGHQの調査などにより裏付けられており、断じて否定できません。また、満州事変の翌1932年に勃発した第一次上海事変も、当時上海公使館附武官だった田中隆吉の謀略によって発生。これも田中本人の証言によって裏付けられている事実です。日中15年戦争が侵略戦争であることに、議論の余地はありません。そして満州事変から1945年8月15日までの15年間、日本軍は中国各地に侵攻し、それこそ本当に罪のない人々に対して、途方もない災厄をもたらし続けたのです。
日本軍将兵による戦争犯罪の記録・証言
その間、数えきれないほど多くの戦争犯罪も発生しました。言うまでもなくその代表は、1937年の南京攻略戦前後にわたって発生した「南京事件」です。この南京事件を「でっちあげだ」とうそぶく輩も後を絶ちませんが、とんでもない。日本軍幹部や兵士ら、加害者本人の記録や証言を調べれば調べるほど、日本兵による不法な強姦・殺害が行われたことは否定できなくなるのですから。そしてこの南京事件は、以下にもあるように、南京攻略戦を指揮した中支那方面軍司令官の松井石根大将ですら認めている事実なのです。
「南京事件ではお恥ずかしい限りです。(中略)私は皆を集めて泣いて怒った。(中略)折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落してしまった、と。ところが、このあとで、みなが笑った。ある師団長の如きは『当り前ですよ』とさえ、いった。」中支那方面軍司令官 松井石根大将(児島襄『日中戦争 VOL3』)
「俘虜(捕虜)ぞくぞく投降し来り数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ片はしより殺戮する。」第16師団第30旅団長 佐々木到一少将(児島襄『日中戦争 VOL3』)
「捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を河岸に引出しⅠ(第1大隊)において射殺す。一日二合給養するに百俵を要し、兵自身徴発(略奪)により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし。」第13師団歩兵第65連隊第8中隊 遠藤高明少尉 陣中日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)
「午後一時、我が段列より二十名は残兵掃蕩の目的にて馬風山方面に向かう。二、三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺す。その後銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばかりと憎き支那兵を三十人も突き刺したことであろう。山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼をも拉がん勇気が出て力いっぱいに突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切ってみた。」第13師団山砲兵第19連隊第三大隊 黒須忠信上等兵 陣中日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)
「拾二月拾七日 午后一時から南京入場式。夕方は大隊と一所の処で四中隊で一泊した。その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江岸にて銃殺した。」歩兵第65連隊第1中隊 伊藤喜八上等兵 陣中日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)
「十二月十八日 昨夜まで殺した捕リョは約二万、揚子江に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。七時だが未だ片付け隊は帰ってこない。」(第13師団歩兵第65連隊第7中隊 大寺隆上等兵 陣中日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)
「南京攻略ノ実績ニ徴スルニ、婦女暴行ノミニテモ百余件ニ上ル。」第10軍参謀長 田辺盛武少将(児島襄『日中戦争 VOL3』)
南京に限らず、特に「捕虜」の大量殺害に関する日本軍関係者の証言は非常に多く残っていますが、捕虜の殺害は当時でも国際法違反です。規模については諸説ありますが、当時の国際法にてらしても不法な行為が横行した事実は、梃子でも覆せません。そしてその「捕虜」の中には、無関係の一般市民も多数含まれていたのです。兵士の陣中日記には、老若男女を問わず子供まで虐殺していた事実が生々しく記録されており、明らかに一般住民と知りながら殺害していることは疑えません。
「(一〇月六日)帰家宅東方にいたる。すなわち支那人女子供のとりこ(捕虜)あり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。
(一一月九日)捕虜をひき来る、油座氏これを斬る。夜に近く女二人、子供ひとり、これも突かれたり。」第13師団歩兵第65連隊 堀越文男 陣中日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)
「一一月二六日。七時四〇分頃、自分達が休けいしている場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと三名は捕らえた。兵隊達は早速二名をエンピ(シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。
一一月二七日。支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家にかくれていた敗残兵をなぐり殺す。支那人二名を連れて一一時出発する。鉄道線路上を前進す。休憩中に五、六軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり気持ちがせいせいした。
一一月二九日。武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとはず全員銃殺す。三時過、一二中隊は五、六人の支那人を集め手榴弾を投げて殺していた。壕にはまった奴は仲々死ななかった。
一二月一日。途中の部落を全部掃討し、亦船にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、或いは火をつけて部落を焼き払って前進す。呂城の部落に入った折すぐ徴発(略奪)に一家屋に入った所、三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落として射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。」第16師団第19旅団歩兵第20連隊 牧原信夫上等兵 陣中日記(笠原十九司『日中戦争全史 上』)
「十二月五日 晴天 休養、午後ヨリ徴発ニ行ク、支那人家屋拾七戸を焼払イ、土民ヲ銃殺ス、哀レナルモノ敗戦国人。」山砲兵第19連隊第3大隊 目黒福治伍長 陣中日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)
「十二月十五日 四時に竜潭に着す、この途中にて支那人二人を殺す、この日も夕食、朝食をうべく一里余部落に入る。」歩兵第65連隊第11中隊 高橋光夫上等兵 陣中日記(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)
さらには、細菌兵器を用いた虐殺行為についても、細菌部隊の当事者が証言しています。悪名高い731部隊が細菌部隊であることを否定する輩もありますが、これも多数の証言、証拠から、到底否定できません。
「私は、細菌を充填した水筒を井戸、湿地、平和的住民の住居の住居に投込むことに参加しました。当時、其処には、総数約三〇〇〇人からなる中国軍の俘虜(捕虜)の収容所が二つありましたが、三〇〇〇個の特製の饅頭が製造されました。饅頭の製造には、派遣隊員が参加し、暫くして此等の饅頭には、注射器で細菌が注入されました。(中略)此等の饅頭が中国人に配られたことは、饅頭を手にした中国人を撮した写真を私自身が見たことによっても確かであります。」731部隊・栄1644部隊 古都良雄(広中一成『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』)
「師団命令に依り、第一大隊を定県より出発させ、主力を保定―除水間の地区より高揚及粛寧附近を経て、安平北方滹沱川と瀦龍川中間地区に向って侵略攻撃させました。出発前、各大隊に毒瓦斯(どくガス)赤筒、緑筒を与へ、此の侵略作戦間努めて機会を求め、特に地下壕の戦闘に之を使用して其用法を実験し、侵略作戦終了後、所見を提出すべきことを命じました。」第163連隊 土坂勝連隊長(広中一成『後期日中戦争華北戦線 太平洋戦争下の中国戦線Ⅱ』)
加害者たる日本こそ侵略の実態を学ぶべき
あの野蛮な昭和初期、日中戦争には百万人が動員されました。無法地帯の敵地で、犯罪行為に走った輩は、数知れないでしょう。そして何より、議論の余地のない明らかな言いがかりから始まった侵略戦争です。仮にそれが「正当な戦闘中」の出来事であれ、平和に暮らしていた家を燃やされ、大切な家族を殺され、人生を破壊された人々が、数えきれないほど生み出されてしまったのです。その人たちの無念をほんの10秒でも想像した人なら、「大昔のことをいつまでも言うな」「俺がやったわけではないのだから知ったことではない」などとは、決して決して言えないはずです。言ってはいけないはずです。――もし、あなたの家族が無惨に虐殺され、その犯人の子孫に「俺がやったわけではないのだから知ったことではない」などと言われたとしたら……あなたはいったいどれほど平静を保てるでしょうか。
こうした途方もない数々の残虐行為を、被害者たる中国が忘れないよう国民に学習させることは、はたしてあるまじき「反日教育」といえるのでしょうか。もしそうであれば、日本が国民に、原爆や東京大空襲、沖縄戦の悲劇を学習させていることも、あるまじき反米教育ということになるはずです。中には信憑性の低い情報もないわけではないでしょう。それでも彼らは、学んでしかるべき内容を学び、しかるべくして心に傷を負っているのです。むしろ加害者たる日本こそ、こうした侵略の実態をつまびらかに学習し、過ちを繰り返さぬよう戒めとせねばなりません。中国が真の歴史を教えていないなどと笑う前に、日本が真の歴史を教えていない事実を恥じましょう。
中国の心情に配慮するのは加害者の責務
――なぜ中国は、台湾有事によって日本が中国に武力介入する可能性があるとの答弁を行った高市首相に、あれほどまで激怒したのか。日本の侵略の実態を少しでも概観したあなたなら、たちどころにわかるでしょう。中国が日本の言動を見るとき、彼らはいつでも、必ず日中戦争の惨禍を思い起こしています。戦後何十年経とうとも、その心が変わるはずはありません。それほどまでに日本軍は、とんでもない災難を中国各地で巻き起こしたのですから。日本が原爆の悲劇をいつまでも忘れないのと同様に、いやそれ以上に、中国は当然、日本の侵略を忘れないのです。到底忘れられないのです。そのような途方もない禍をもたらした当の日本が、中国にまたしても武力介入する可能性があるなどと自ら言ってきたら……激怒するのは言うまでもありません。――あなたがもし自分の愛する家族を殺され、その犯人の子孫に「場合によってはまたやるかもね」と言われたら、どうして激怒せずにいられるでしょうか。
戦後、中国は賠償金を日本に求めず、その罪を赦しました。そんな中国に対して日本は、恨みどころか、むしろ大恩があるはずです。ならばその心情に配慮するのは、加害者として最低限の責務のはず。中国が折に触れて日本を責めるのは、毎度毎度、その心の傷をほじくり返すような真似をする、無学で陰険な政治家がいるからにほかなりません。そのような中国の当然の反応を逆恨みするのは、無学で陰険な小人のやることです。日本が美徳の国だと信じるのなら、真の被害者の心の痛みに、今こそ向き合うべきではありませんか。